
越谷市で税理士をお探しなら
越谷市の税理士 佐々税理士事務所
〒343-0834 埼玉県越谷市蒲生愛宕町6-77
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埼玉県が最下位だったらしいです。
名前がダサいからでしょうか?
埼玉県を武蔵県にしたら30位ぐらいに上がらないだろうか。
魅力がないけど住んでる人の数は5位。
住んでいる人は、住もうとする程度の魅力は感じたのだろうから、全員がこの投票に参加したら、たぶんもう少し上に行くと考えると、つまりは埼玉県に住んでいる人たちは、そういったことに無関心、つまらない事だと思っている人たちと推察できます。
まあ、負け惜しみですが、つまらないランキングに囚われない大人の人が埼玉県には多いとも考えられます。
私が住んでいるところは、住むにあたり大きな問題はないのですが、近所の川が汚すぎるのはちょっと寂しいです。あの川が橋から川底が見えるぐらい水がきれいだったら、川辺を散歩したら気持ちいいだろうになぁ。
リニアの建設で静岡県が工事を許可しないと騒いでいる。
これでは期限までに完成しないと。
たぶんこれは騒いで楽しんでいるのだろう。
だってそうではないか。こんな風に騒がせないような手続きにすることはたぶん簡単にできるだろう。でもしない。何故しない?騒ぎたいからだろう。
たぶん、あるところで静岡県が折れるのだろう。そういうシナリオが初めからできているに違いない。もし、静岡県のせいでリニアがなくなりました、というところまでいったなら、静岡県には頭が下がるが、それはそれで笑える話ではないか。茶番か滑稽か、どちらにしても笑える話である。たぶんこういう厳しい時なので、笑いを世間に提供したいのだろう。そう考えると、ありがたい話かもしれない。
米国を震源とした人種差別に対する怒りが世界で爆発している。
人種差別とは何であろうか?
要はその種類の人が嫌いということであろう。種類にもいろいろとある。肌の色、国、地域、性別などなど。つまり、特定の種類に当てはまる人を無差別に嫌うということになりそうである。
では、それの何が問題なのか?
人は誰でも好き嫌いがある。いやむしろ好きな人は少数で多くは普通の人で、次に多いのは嫌いな人ではあるまいか。嫌いな人ということなら、誰の周りにも山のようにいるだろう。では、嫌いであることを公然と発言することが問題なのであろうか?まあ、それはあまり良くないかもしれないが潔いという意味では一概に悪いとは言えないだろう。差別という言葉には嫌いという言葉では表せない深い憎しみが背後に潜んでいそうである。その背後にいる憎しみはどこから来るのだろうか?
人は誰しも違う。肌の色に限らず、全てが異なる。同じ人は誰一人としていない。こんなことは改めて言うまでもなく、当たり前のことであり、その異なる人との出会いを通じて、自分は自己を発見していくのが人生の旅であろう。違うからこそ、愛が生まれる時があるし、嫌いや憎しみが生まれることもある。それは普通のことである。
そもそも大前提として、人の価値は同じなのか違うのか?どうも差別という言葉には生まれながらにして、優劣を無意識に刷り込まれている怖さを感じる。
人の価値は同じである。
どうも結局のところ、このあまりに常識的なことを受け入れることが困難な人たちがたくさんいることが差別という言葉の根っこにあるように思われる。それは、きっと人の戦いの歴史が背景にあるかもしれないし、資本主義や競争社会にそう誘導されているのかもしれない。でも、いかにあなたがお金持ちでも、心優しい貧乏人より優れていると言えるのか?いかにあなたが頭がよくても、すぐに騙されるお人よしより優れていると言えるのか?それは単にあなたが現代に適合しているといった程度で、時代が変われば優位も変わるレベルのもので、たいした差ではない。しょせん人生100年の人レベルの話ではないか。人は本当は何を目的に生きているか話せる人すら一人もいないのだ。では、みな同じ価値と考えて問題あるまい。ただ、自己の欲望などのために他人を傷つけたり、殺したりしてはいけない。自分がされて嫌なことを他人にしてはいけないのは当たり前である。このような行為は人の価値を下げることになるだろう。何故なら、他人を自分と同じように価値ある存在と認めていない行為だからである。
他人を尊重し真剣に生きようとしている人の価値は同じである。
むしろ、他人は自分である。同時代を生きている人はみんな仲間である。とは考えられないか。まあ、人は争いが大好きな生き物であるから、差別はずっとなくならないのであろう。ただ、自分は差別をしないと誓うことは誰でもできることであるし、それがきっと世界から差別を追放する礎にもなるであろう。しかし、日本の片隅にいる私には人種差別という言葉の背景にある真の意味を理解できそうにない。とても私には分からない感情が渦巻いているのを感じ涙がこぼれる。人は常に差別する心を奥底に持っていることを自認し、常にその心の芽が大きく育たないよう自己の感情を制御するしかないのであろう。それには日頃から自分にとっての常識を研ぎ澄ますしかないのではなかろうか。
日本は少子化で悩んでいるらしいという記事が出ていた。
本当に悩んでいるのであろうか?又は悩むべき事柄なのであろうか?
まず、何故少子化になるのだろうか?
人口が増加している時代は、日本の経済が発展している時代であった。現在は日本の経済力は低下しつつあるから、減少して当たり前であるように思われる。
女性の社会進出を歓迎しているのであるから、女性の自立に伴い、無理に結婚しなくても女性自身が生活できるようになることは目指している社会の姿であろう。であれば少子化も目指している姿であるはずだ。まさか女性は何もしなくてもバリバリ働いた上に、育児もバリバリしてくれると思っていたのであろうか。
当たり前だが、結婚と幸せがイコールでないことを国民は感じている。これだけ離婚率が高くなり、一人で子供を育てないといけないリスクが高まると、相手にそれなりの人格を求めたくなるが、自分が楽しめることが人生の価値であるという風潮の中では、自分を含めてそこまで人格が高い人が見つからず、そうなると結婚は単なるリスクでしかなくなる。結婚自体は我慢と忍耐の中に、動物の本質としての愛情を発見する行為であるため、もっと簡単にメリットを生み出す仕組みを考えないと、一般的に結婚を広めるは難しい状況になっている。つまり、結婚は精神的にある程度成熟している人向けの特権的なものに変わってしまった。
つまり、少子化は現代では当然の結果である。
それに抗って本当に増加を目指すのであれば、結婚が一般的に良く分かる形で得になるという仕組みにしなければならない。つまり、若い世代からお金の憂鬱を少しでも取り除く必要がある。手っ取り早く少子化を解消するには、子供一人当たり出生から大学卒業まで月額5万円程度を給付するという案が考えられる。又は、3人目の子供が生まれたら家かマンションの購入資金3,000万円をプレゼントというのもいいかもしれない。若しくは、塾も含めた学費を全てただにするというのも、それなりに効果はあるだろう。どちらにしても、分かりやすい形で子供を国が望んでいる姿勢を示すことが必要だろう。
まあ、予算的に無理だとかで、どうせ何もやらないだろう。医療費などの社会福祉に予算を取られ過ぎているし、たぶん本当は少子化などは問題だと国は考えていないのだろう。子供を育てることが特権になることを国は望んでいる可能性もある。国立の東大も金持ちしか行けない大学になっている。子供も金持ちしか持てないようにする気なのかもしれない。恐ろしいことである。少子化のことを考える時は、その事柄が問題なのではなく、その事柄の奥に潜む思想に目を凝らす必要がありそうである。
普通の人が、普通に子供を育てる社会がどれだけ大事なことか。子供を育てるという動物本能的な行為の中に、自然が人間を作った何物かがきっとあるのである。お金で代替できない生命の不思議を肌で感じ、祖父母、両親から自分、子供、孫への繋がりが悠久の時の流れのなかでどれだけ奇跡的で大切で儚いものであるかを知る。そういった精神を育むために人間が存在していると言ってもいいのではないか。それをお金は側面から助ける手段であるはずのものだ。主客が逆転していることを思わないか。誰もが他人を慈しみ、愛し、愛の結晶として子が生まれ、自己よりも大事な何かが世の中にはあることを知る。そういった精神を、国はできるだけ守らなければならない。子育てを特権階級のものにしてはならない。
GAFAは今回の危機でまた強くなりそうだ。
凄いですね。
私が大学生の頃、新し物好きの同級生の部屋で、止まりそうになりながら表示される画面を見ながら、「すげー。これがインターネットか」と感嘆の声を上げていたのを懐かしく思い出します。あれから25年ぐらいで社会の様相はがらりと変わってしまいました。
私などは古い人間なので、好きな人は肉眼で視覚していたいのですが、今は、画像でも十分なのかもしれません。
時代は変わる。いかに上手に時代と付き合うか。自分の心と対話しながら許せる範囲で付き合っていきたいものです。
どっぷり時代につかり過ぎると、思考が停止して、自分の心を見失う危険がありそうです。注意したいです。
営業を継続しているパチンコ店名を公表しているそうだ。
賭けマージャンはダメ。
パチンコや競馬や宝くじはオッケー。
その線引きは何だろう。
その方が余程興味深い。
政治については、勝ち負けの話が多いのであまり興味ないのですが、教育については、大事に思っているところがあります。
9月入学への移行は、現状を考えると、直感的に、悪くない選択のように感じます。
いやむしろ、国際的なスタンダードに移しつつ、今の受験生達の気持ちを少しは和らげることができる妙案のように思います。
ある意味、学問の分野が一番大事なので、こう決定すれば、全体として9月までにどうにか鎮静化できればという、気持ちの余裕が生まれ、社会全体に良い影響が生じる効果も期待できそうです。
ステイホームという言葉が流行っている。
これについて、私がどう考えるかはシンプルである。
どうも現状、日本の医療はこれ以上の患者増に耐えられないようである。
そうであるならば、お医者さんへの配慮のため、自分の命のため、できるだけお医者さんの世話になりたくないなと。
では、できる限り、接触は避けようと。
自由の制限だとか、医療が脆弱だとか、小難しいことや、今更言っても仕方ないことは、インテリや政治家に任せて、僕ら一般大衆はただ、独立自尊だけを考えればいいのかと思います。
国の世話にできるだけならない、自分の命は自分で守る。
まあ、それでもなっちゃったら、仕方ないけどお世話になりましょう。
それぐらいは、許してくれるでしょうし、それを許してくれなら、国なんて不要です。
事業に関して言えば、飲食業、観光業等でダメージが大きいなら、マスク売る、デリバリーする、漁師になる、コーヒー売る、何でもする、要は他で金を稼ぐしかない。僕たち大衆は、いつの時代もそうやって生きてきたはずであり、そうするしか道はないのです。ある意味、僕たちは何でもできますし、いつでも儲かっている分野はあります。今なら、宅配、持ち帰り、運送、ネット通販、本販売、盆栽、ネット配信、ユーチューバー、ペット販売、ネット見合い、ネット面接などなど。頑張って生き抜きましょう。
標題の法人は、豊島区の公民館で学生ボランティアらが小中学生を対象にした無料の勉強会を開いているそうです。
素晴らしい取り組みだと思います。
ただ、もっと根本問題として、子ども全員が学ぶ意欲さえあれば、高等教育を受けられるように、公立高校、公立大学の学費を無料にできないものでしょうか。できれば、塾に行かずとも学校の勉強をしっかり頑張っていれば、公立高校、公立大学に進学できる仕組みを早急に構築することが、全ての子どもたちに夢を与えるになるのではないかと考えます。
公立中学、公立高校で成績を一定以上取って卒業すれば、自動的に好きな公立高校、公立大学を選択できる仕組みがいいと思います。公立高校、公立大学のランク付けは止めて、全て横並びにします。普通科高校、総合大学への進学は狭き門にして本当に学問を究める人だけが進学します。それらの学校以外に公立の専門職高校及び専門職大学を設置することで、学問を究める以外の人には早期の就業を可能にします。公立高校、公立大学では、生徒は学びたい内容に応じて先生や教授を選択でき、更にどこの公立高校、公立大学でも相互に単位を認定するようにすれば、今日は東大の○○教授の授業に出て、明日は一橋大の××教授の授業に出るみたいな楽しいことが可能になります。大学名でランク付けをするのではなく、先生自身がランク付けされるようにします。教育は公立中学、公立高校、公立大学、公立専門職高校、公立専門職大学を軸に展開し、限られた私立高校、私立大学が独自の教育でおもしろい人材を輩出するというのはどうでしょうか。
子供の学びは人類にとって一番大事な部分です。人類に一番大事なことについてお金を影響させてはいけません。生存に一番大事な空気も無料じゃないですか。高級車に乗ることは人類全体にたいした意味はないので、お金の問題にしてもいいですが、優秀な子供がお金がないために大学に行けないというのは人類全体に大きな損失になります。人類を地球でできるだけ長生きさせるためにも世界全体をリードする人材の育成を、地球全員の将来のために真剣に考えないといけません。それには親の経済力によらず、全ての優秀な子どもに目を行き届かせることができる教育システムが必要です。一発受験、塾に頼った教育システムでは優秀な子どもが本来の力を発揮する前に抜け落ちる危険があります。
また、子供の学びについて公平かつ無償にすれば、少子化はかなり解消するのではないかというのが私の読みです。親にとって一番気になるのは、自分の経済力のせいで子供が社会で公平な競争のスタート地点にすら立てないのではないかという心配だと思います。不公平感が強くある社会では、子供もいなくなり、人間の活力もなくなっていくのは当たり前です。
「大阪を変える100人会議」では多彩な活動をする人々が集まって議論することにより、公や民の事業の対象になりにくい社会課題を見つけ出し、NPO法人等を通じて解決する方法を検討しているそうです。
根底にあるのは、「共創」で大阪をもっと優しく元気な街にしたい、という想いだそうです。
私は小1から中2まで大阪府の箕面市に住んでいたこともあり、大阪を懐かしく思い出しながら100人会議の記事を読みました。
社会に貢献したいと考えている多くの人が、100人会議のような場があることで、つながることができ、そこで様々な知恵が混ざり合って新しい発想につながるのでしょう。こういった活動を通じて大阪がどんどん元気になってくれると嬉しいです。
沖縄には「ちむくぐる(思いやりや真心のある)」という言葉があるそうです。
佐渡山要氏は、そんなちむくぐる事業を行っている方です。
佐渡山氏の事業は、経済的な事情等で塾に通えない子供達に一日500円で勉強をする場を提供するというものです。佐渡山氏は塾を共同経営していた経験もあるため、指導も可能ですが、子どもたちが自分で必要な教材や本を用意し、自分で勉強や読書をするという、自主自立のために場の提供を第一の目的としていると言えるでしょう。
これは素晴らしいなと思いました。
もっとこのようなソーシャルビジネス的な起業が増えてもいいのではないかと思います。
もちろんその事業を起業家が生活を営める構造にすることも重要です。
大企業にできない分野で、社会に役立つと同時に、自分の生計を立てる。
ソーシャルビジネスは、身近な社会問題の解消を最優先し、利益の最大化を追求するわけではないという点において、資本主義思想に思いやりを注ぎこむ事業形態と言えます。資本主義のジレンマを解決する一つの解がここにあるのではないかと思います。
先日、国分太一さんが司会している夜中番組で、いろんな国の外人さんがたくさん出て話をするというのがあって、たまたま見てました。
そこで、お国自慢というのがあったのですが、バングラデシュの方が「うちのカレーは世界一うまい」と豪語してました。隣の席がインド人だったのですが、かなり激しく言い合ってました。
バングラデシュは首都おたくの私でも、簡単には首都が出てこないような国ですが、今度バングラデシュ料理屋でカレー食べてみようと思ったのでした。そう考えると、この人は相当バングラデシュの宣伝をうまくしているな~と思います。
ちなみに、日本からのお土産で喜ばれるものとして、ロシアの人はカイロ、砂漠圏の人は目薬、全体としては着物だそうです。あと、ウォシュレットやアニメとかには感動しているそうです。ロシアにはカイロがないそうなので単純に持っていったら売れそうですよね。
世界の方が日本をどう見ているのか、どういうとこが好きで、どういうところが嫌いなのかを聞くと、グローバル化に適合するのに少し役立つかも?